「真夏のキューピット」
暑い夏に生まれた私の甥っ子は、今年10歳。私が21歳のときに生まれた甥っ子。社会人1年生の私にとっての衝撃的な一日だったことを10年経った今も忘れることが出来ない。
もうアレから10年の月日が流れたのだ。
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10年前、仕事を終えた午後5時。帰宅しようと帰り支度をしていているところへ母から電話が掛かってきた。珍しく会社への母からの電話で多少驚いたことを覚えている。
何やら昼頃に姉が産気づきクリニックへ向かう時慌てていた為に家の愛犬バニラの餌をあげてくるのを忘れたのだという。それで、私にバニラに餌をあげてからクリニックへ来る様にと電話してきたのだ。
人使いが荒い母なのは充分に承知していたし、間抜けな性格であることもきちんと理解していた私は渋々餌やりを承諾した。
その時の私はすごく無愛想な顔だったようだ。その顔に気付いたのは同期で経理に身をおく「早瀬川くん」だった。
どうしたの?と不機嫌そうな私を宥めるかの如く、彼は私に話しかけてきた。彼とは同期の中でも仲の良い方で飲み会などの席などでも会計の私たちと隣の部署ということもあり、同席する機会も多かった。
彼が、私の不機嫌な理由を聞いた後、
「餌あげてから、そのクリニックに行くの?」
と尋ねてきたので、私は
「そうだよ、ココから直接行った方が本当は近いんだけど。ワンコの為に一旦帰ってから出直すの。」
と告げた。すると彼は事もあろうに予想外の言葉を切り出してきた。
「それなら俺が足になろうか?」
不可解なその言動に一瞬目を顰めて彼を凝視した。
「実はそのクリニックに知り合いが居てさ…夜勤の人との引継ぎが終わるのが6時ごろらしくって。ココから近いから、それまで時間も半端で時間持て余してたから暇つぶしに丁度いいし、どう?」
早瀬川くんのナースの「知り合い」というフレーズを聞き、勝手に「知り合い=彼女」だと勝手に妄想を膨らませた私は、一度お目にかかりたいという気持ちでいっぱいで不可解なそのお誘いを受けることにした。
マイカー通勤をしている彼の車に乗せてもらい、私の自宅へと道案内をした。
彼の車は3年前にお兄さんの新車購入を期に譲り受けたという4輪駆動の大きな車だった。年式は古そうだったが兄弟で大事に乗っているのだろう、車内もとても綺麗だった。
いつもの駅ををこの日初めてこの時間に車道から通り過ぎる感覚が今でも忘れられない。
今考えるととても特別な出来事だった気がする、そしてあの日が私の「転機」だったのだ、とも。
会社からは我が家までは車で15分ほどのところにある。多少坂道が気になるが、それを除けば結構便利な住宅街に位置していた。
この時刻は帰宅ラッシュであるので車ではかれこれ倍近く時間を費やす。何だか余計に申し訳なくなってきたが、そのことを気にする事もなく軽快にハンドル操作に連動した軽やかなトークを展開する。
その軽快男を横目でチラチラと観察し、その彼女もこの助手席でこの男の事をそんな風に思っているのかも?と思う。
それよりも助手席に何の迷いも無く乗ってしまった私は、厚かましいにもほどかがあるな、と自分に呆れてしまった。
そんなこと全く気にしていない様子で運転する早瀬川くん。車線変更も儘ならない私は彼の運転に、上手いもんだねぇ〜と巷のオバサンのようなことを言ってしまう。
そんな私をフッと嘲笑うかのように笑ったかと思うと、
「高校時代に免許取らせてもらって、それからこの車貰ったんだよ、だからかもな?」
コレに乗りなれてんの、なんてハンドルを掌で叩きながら優しく受け答えしてくる。きっと彼は女慣れしているのだろうな、などと思いながら家路へ付いた。
我が家の空車の駐車場へ車を停め、車で待つという彼を強引に家に連れ込んだ。家はそもそも実家だしお互いにただの友だちで何の下心もない。
バニラも留守番していて、愛犬の為にエアコンを付けているのを私も承知していたので彼を家に上げる事に何の迷いも無かった。
早瀬川くんをリビングのソファに座らせお茶を出している間に、私は私服へ着替る。それからバニラの餌やりをして私達は家を出た。
夕暮れにはまだ余裕のある空に浮かぶ大きな入道雲を見ながら、私達はクリニックへ急ぐ。
クリニックの駐車場に到着したとき、丁度車の時計のデジタルは18:00だった。
「時間にも間に合って良かったぁ〜。早瀬川くんありがとう!このお礼は今度ランチでもご馳走するから。」
といって車から降りようとしたとき、不意に彼も運転席から降りた。
「お前のねーちゃん、もしかして産んじゃってるかもだから、ホラ!急ぐぞ!」
そういって私を助手席から降ろし私の手首を掴むと、ズンズンと病院の中を進む。まるで道案内のように何の迷いも無く進む彼の後姿を、ただただ見つめながら分娩室へ急いだ。
いつも颯爽と同僚と社内を歩く姿と、今、手を引き迷い無く目の前を進んでいく彼の姿が重なる。
軽快男、早瀬川 高広。
そのときの広い背中を、私は今でも覚えている。
軽快男「早瀬川くん」の言うとおり、姉はもう甥っ子を産んでいた。彼は何でこうも勘が働くのだろう。もしかして本当はエスパーではないのだろうか?と真剣にそう思った。
生まれて初めてご対面する私の甥っ子は、やたら赤く、しわしわで小さくて…そんな命を看護師さんが抱いていた。父と母と義兄さんの家族が我先にといった具合に覗いている。
今日の朝まで姉のお腹の中でボコボコと動いていたその命。その命がお腹から出てきたという不思議な感覚。
父と母は今までに見たことの無いような顔をしていた。
「おめでとう」
不意に頭の上から聞こえてきた早瀬川くんの声。「ありがと」とかえした。彼は、わたしのおばさん記念日を祝ってくれたらしい。
ちなみに私はおばさんとか呼ばせるつもりは毛頭ないのだけど。などと、そんなことを思いながら父と母の顔を見たら、その命の尊さをヒシヒシと感じてしまい、感極まってしまう。
いつもふざけている父、それを冷たい視線で冷ややかに見つめる母。変な夫婦だが、なかなか調和の取れたいい夫婦。
そんなふたりが初めておじいちゃんとおばちゃんになった日。姉が初めて母親になった日。
そして、私が初めて本当のオバサンになった日。
この真夏の夕暮れに生まれた命。私はこの日を忘れないだろうと、何故か思った。そして不覚にも鼻の奥がツンとして涙が出そうになった。
命の誕生とは、全てのものに影響を与えかねない凄まじいパワーを秘めている。その事実を目の当たりにした私は姉の出産にさえ何故か泣きそうになる。
ふと、甥っ子を抱いた看護師さんがこちらに目を向け、その目が早瀬川くんを捉えた。
もしかてもしかすると、この人が早瀬川くんの彼女なのか…?
甥っ子の命の誕生におばさんになったという記念すべき日に同僚の彼女と初対面?何だかすごい組み合わせに自分でも驚くばかりだった。
「では、赤ちゃんは今日一日こちらのお部屋でお預かりいたしまして、明日以降ママさんの体調次第で同室ということになります。」
と看護師さんは淡々と告げた後、確実に早瀬川くんにアイコンタクトしてから中へ入っていった。
「あの人が彼女?」
うっかり聞いてしまいたくなった私は、思わず口にしてしまった自分に驚きながらも彼の顔を見た。
「…はぁ?…って、あぁ、俺の妹。ちなみに似て無いけど双子な。お互いの時間が合う時は時々迎えにくるんだよ、ココ。」
そういいながら、サッと私にハンカチを差し出してくれた。思わぬところで勝手に涙が頬を伝っていたらしい。ありがとう、とまた彼に感謝し遠慮なくそれを受け取り目に当てた。
ガラス越しにちらちらと見えるテキパキと仕事をこなす女性。赤ちゃんのお世話も慣れたものだ。1卵生だからか、だからあまり似てないんだ。とか外見的なことも発見する。でも綺麗な人だ。テキパキと動くところはやはり兄妹なんだなと思い知らされる。会社での彼の姿と少しダブる。
彼とはまだ就職してからの友だち。というか、ただ会社の同期。彼に何人兄妹がいるとか、そんなことも全く知らなかった。
だけど今日、お互いのプライベートに少しだけ触れ合った。双子だと聞き、普段知らない彼を知れたことで何だか妙に親近感が湧いてきた。
そもそも「早瀬川 高広」という人物自体、きっと半分も知らない。
今日は初めての事が多すぎて、頭が少し混乱するし、やたらと変な汗を掻く気がする。コレは真夏の所為だろうか、とも思った。
彼をもっと知ってみたいと思ってしまった、この感情さえも。全て暑さの所為だと思ってしまう。
そう思ったのは彼も同じだったようで、それからあれよあれよという間に私たちの距離は縮まっていくことになる。
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10年前のあの日、この世に生を受けた命は、すくすくと成長を遂げ、今に至る。
私たちはあれから何となくお互いが急接近していった。そのことに何の疑問も無く、私はというと彼の呼び方を「早瀬川くん」から「高広くん」へ。もちろん高広くんも私の事を「堀田ちゃん」から「藍」と呼ぶようになった。
順調に交際を続けた5年後。彼の転勤することが本決まりになりそうだというクリスマスにプロポーズを受けた。その春に私は彼のお嫁さんになることとなり、「早瀬川 藍」になった。結婚式にはキューピットである私の甥っ子兄弟がエスコートしてくれた。
それから4年間、地方で新婚生活を過ごした後、今年の春、彼が本社へ戻ることとなった。
そしてまた入道雲の季節。私は今、あの時の姉に負けない位の大きなお腹を抱えて10年前に甥っ子が生まれたクリニックの陣痛室という部屋に待機している。
担当の助産師はあの日、甥っ子を抱えて出てきた彼の妹。義妹に取り上げてもらうのは多少の羞恥心もあるが私の希望でもあった。私よりも年上な義妹はとても頼りになる存在だ。
時折、唐突に陣痛という今までに経験したことの無い途轍もない激痛が押し寄せてくる。枕元にはあの日、このクリニックへ私を送ってくれた高広くんが私の頭や腰や体中撫でながら、忙しなく動く妹に話しかける。
「おい、まだあっち行かないのかよ?藍、すげー痛そうなんだけどさ…。」
「さっき調べたけどまだだったでしょ?子宮がもう少し開かないといけないから。初産にしてはこの展開は速いほうなのよ?やっぱお姉さんに似て早いのかな、藍ちゃんも。はい、藍ちゃん?ヒッヒッフー、ヒッヒッフー」
『コレで早、い、展開、だって…?もう、これ以上時間かかってたら、私…耐え切れな、い…』と、心の中でひっそりと愚痴りながらラマーズ法の呼吸を繰り返す。
確かに私の友だちも2〜3日陣痛と戦って結局は帝王切開になり「死ぬかと思った」って言っていた。彼女のあの痛々しい産後に記憶を廻らせると途轍もない不安が押し寄せる。
こんな痛みが何日も続かない事を祈りながら「ヒッヒッフー」と痛みを逃す。彼もヒッヒッフーの練習を一緒にしてきたので頭の上で私と同じ息遣いをしていた。何だか少しだけ心強く感じた。
私は10年の間に3兄弟の母となった姉が「鼻の穴からスイカを出すくらい痛いのよ」って言っていた、その例えが適切であったことをこの身を持って痛感していた。
どうでもいいから、もう早く産みたい衝動に駆られる。腰が壊れそうだし、息するのも忘れそうだ。女という生き物は、それを全て乗り越えなくてはならないらしい。
みんなそうやって母親になったのだから。
だから女は強いのだ。と、いろんな意味でそう思い知らされた気がした。
それから、陣痛は急速に頻繁に押し寄せてきた。間隔が押し迫り分娩台へ移動した。その後子宮の開き具合を確認し、また待機する。
高広くんは、居ても起ってもいられないといった具合で「まだかまだか」と妹に迫るが「タカ、しつこい!」と言われる始末。
それからしばらくして子宮口が全開になったらしく、インターフォンで先生も呼ばた。そして念願の「いきむ」作業に取り掛かれる。
「いきむ」ことができるんだという安堵感と同時にいよいよなんだという不安と焦りも感じる。勝手に出てこようとしているかのように痛みで主張してくる赤ちゃんを必死でお腹の中に留めておいて子宮が開いてしまうまで待ち続ける。
まさに女は忍耐だ。
「はい、いきんで!」
それを2、3度繰り返す。「目は瞑らないで、赤ちゃんが出て来たところがみえるから」と姉にも義妹にも執拗に言われたので瞑りたい衝動を必死で耐えて目を開ける。
私は搾り出すように、我が子は暗闇から這い出るかのように私の中から、この世へと誕生した。
血まみれで、とても綺麗とは言い難い。だけどすごく愛おしくて堪らなかった。まさに血の気が引いて行くように一気に痛みが消え、気持ちもスッと軽くなり、かわりに暖かい何ともいえない充実感が押し寄せる。
娘は軽く綺麗にされた後、直ぐに私の胸の上に置かれた。暖かくて小さくて皺皺だけど、綺麗な赤ちゃんだと思った。指がスラリと長くて細い。足も小さい。
「おめでとう!元気な女の子だよ〜可愛いね、藍ちゃん似じゃない?ほら、早速抱っこしてあげて。」
私の胸の上にうつ伏せで寝そべる小さな小さな天使を見つめる高広くんの顔をみて初めて事の重大さを感じた。高広くんは私の腕をさすりながら一緒にいきんでいたのか?それとも余程興奮していたのか?何故か彼の息遣いは、とても荒かった。私達夫婦はふたり顔を見合わせて笑う。そして
「…藍、ありがとう。」
という彼の声を耳にしながら、私の頬を撫でる彼の手に安堵して目を瞑る。そして次の瞬間、目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、初めて彼が私に見せた「涙」だった。
この日私は母親になり、彼は父親となった。
この天使によってもたらされた幸福感と充実感と何とも言い表せない責任感。
私は初乳を娘へ与える。この初めての行為はとても重要な役割があるとか。体の小ささからは想像もできないほどのすごい吸い付きでとても痛い。姉がいつも痛いといっていたがこんなに痛いのかと驚いた。
その後、自分の腕になんともぎこちなく娘を抱く高広くん。その光景を分娩台の上から見て、何とも言い難い想いが込み上げえ来て、私も鼻の奥がツンとした。
でも涙は流れなかった。
きっとそれが、母親になったという証なのかもしれない。そう思いながら彼と娘を見つめた。
その後、高広くんは準備してあったデジカメで沐浴シーンをムービーで撮ったり写真を撮ったり忙しく動き回る。早くもまさかの親バカ発揮する彼に私は思わず笑ってしまった。
―もし、10年前の真夏の出来事が無かったとしたら
きっと私と彼との間には何も無くて、もちろん私も今この場所で姉と同じように子供を産んだりしていなかったのではないだろうか。
このクリニックで私と彼はきっと同じことを思っているに違いなかった。
「俺たちのキューピットにも、早く抱っこしてもらわなきゃな。」
生まれたての娘を抱く妹を分娩室から見送りながら、私の手を握って彼がポツリと呟いた。
<あとがき>
今回やたら長くなてしまったので追記部分に分けました。読みづらくて申し訳ないですが、お許しを。
出逢いとは偶然であって必然であると思いたい。
何処で何をしてても出会っていたんだと思いたい。
妊婦さんを見かけて、暑いのにお腹が大きくて大変だなと言うところから
このお話は生まれました。
全ての人に親が居るからこそ、この世に生を受けた命がある。
そのことを書いていて痛感しました。
最近、哀しい事件が多いけど、誰しも必ず、この世に出てきた瞬間がある。
その事を忘れないで居てほしいなと思うし、私も忘れないようにしたいと思います。
【Hide More】